糸をほぐす

頭の中のからまった糸をほぐすように、文章を書いています。

風邪をひく

風邪をひいた。

突然の嘔吐、全身の倦怠感で1日寝込む。

「咳をしても一人」。名句だ。

 

起き上がれるようになり、とりあえず出勤する。

いすに座って目を開けているだけで、空気中に私の生命エネルギーが漏れていく。

「誰かホイミを・・・いやベホイミじゃないとムリ・・・」

机に突っ伏してか弱い声でそう言い後輩に優しい言葉を強要するも、彼が発したのはホイミだったため、私は回復しきれずに早退した。彼のMPが足りなかったのか、そもそもベホイミレベルに達していないのかはわからない。

 

そんなここ数日。

やっと回復してきたので、これから「逃げ恥」最終回の感想を書こうと思います。

 

かの有名な句は飯田蛇笏作だと思い込んでいたけれど、ググったら尾崎放哉作でした。この思い込みはどこからだろうと思い、高校のときに授業で使っていた「日本文学史」という資料集を見てみたら、飯田蛇笏と尾崎放哉の人物説明がとなりどうしに載っていて、なるほどと思ったのでした。

『真田丸』最終回 滅びの美学ではなく

終わっちゃった。終わってみればあっというまだった。さよなら、2016年。まだあるけど。

真田信繁(幸村)が九度山から大阪に戻ってきて、ここからは滅亡まで一直線、最終回ではきっと華々しく散る滅びの美学みたいなものを見せるのだろうと思っていた。

でも違った。

このドラマが最後に見せたのは、どう死ぬのかではなくて、どう生きるかだった。

どんな終わりを迎えても、大事なのはいかに生きたか。

そして時間という試金石がその生き方を評価する。

だから信繁の最期のシーンは、想像していたようにパッと散るのではなく、静かに終わっていったんだろう。 

堺雅人さんの信繁は素晴らしかった。

  

ただ心残りも。

信繁と家康の戦場での最後の対峙のシーン。

馬上から家康を銃で狙う信繁。しかし信繁の弾丸が家康に向って撃たれる前に、応援に来た家康の息子秀忠の軍に、信繁は腕を銃で撃たれてしまう。第三者の介入で2人の対決という意味では決着はつかなかった。が、あそこは信繁に家康を撃ってほしかった。撃って、はずしてほしかった。

私は司馬遼太郎さんの「関ケ原」を読んでから、どの俳優さんが家康を演じても憎たらしくて仕方ないんだけれど、内野聖陽さんはその憎たらしさをすごくうまく出していたと思う。「はっはっはっは」と笑いながら腹の中で「何だよこいつ目障りだな」と思ってそうな表情とか、すごくうまい。ドラマの中盤以降は、家康が画面に映るだけでイラッとしたくらいだ。そのくらいうまかった。そんな憎たらしい家康が、状況を見、人の心を動かし、運に味方され幾度の危機を乗り越えてきたのを見ていると、もしかすると歴史が家康を選んだのかもしれないという気持ちになった。認めたくないけど。

だからそれを、ちゃんと見てみたかったと思う。家康憎しの私でも納得せざるを得ないくらいの、歴史が家康を選ぶところを。

 

全編を思い返すと、九度山での真田昌幸の死が記憶に残っている。あの方を見るために毎週「真田丸」を見ていた私は、しばらく昌幸ロスから抜け出せなかったよ。

それと第49回最後できりが「源次郎様(信繁)がいない世にいてもつまらないですから」と言うシーンはうるっときた。うざいうざいと言われていたきりが、次第にまわりのみんなから頼られるようになり、ようやく最後に信繁の心もつかむことができた。よかった。本当によかった。

 

ああ今年ももうすぐ終わりだ。


<追記 2017.1.31>

なんとなく、最終回の信繁対家康のシーンをもう一度見てみた。

銃を向けられた家康は、自分を撃っても徳川の世は盤石で、戦で雌雄を決する時代は終わり、信繁のような戦でしか生きられない男はもう生きていく場所がないと信繁に告げる。それに対し信繁は、そのようなことは百も承知、それでも父昌幸のため、秀吉のため、死んでいった愛する者たちのために家康を討たなければならないと答える。

最初に見たときは、家康と信繁の勝負はつかなかったという意図で、信繁に銃を撃たせなかったのかなと思った。

けれどそうではなくて、家康は信繁が手を伸ばしても届くことがないほど先の時代に行ってしまったということだったのかもしれない。戦で雌雄を決する時代は終わり。個人の感情で家康に銃を向けた信繁に撃たせなかったのは、そういう意味だったのかもしれない。

それにしても、ひさしぶりに真田丸オープニングテーマを聞いたけど、やはりいいですね。

 

★『関ケ原』 司馬遼太郎著 新潮文庫

ドラマではあっというまに終わってしまった関ケ原の戦いに焦点をあてて書かれた歴史小説関ケ原に至るまでの過程も丁寧に書かれています。主人公は石田三成。私は島左近が好きでした。格好いいです。家康はとにかく憎たらしい。

2017年秋、この小説をもとにした映画も公開されるようです。

岡田准一&役所広司が三成・家康に! 司馬遼太郎「関ヶ原」を映画化! | cinemacafe.net

 

 

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

 

  

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

 

 

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

 

 

『逃げ恥』第10回 認識の違いから生まれた「愛情の搾取」

いろんなことがちょっとずつひっかかり、何について書こうか考えていたらなかなかまとまらず、時間がかかってしまった。

思考があちこちいったけど、みくりちゃんが言った「愛情の搾取」がどうして出てきたのかについて書く。

  

その前にまずひとこと言いたい、2人初めての夜について。

きわどいシーンは必要ないけど、パジャマでいちゃいちゃくらいは見たかった。オタオタするかわいらしい平匡さんが見たかったー。なのにぬいぐるみとロボホンて。

 平匡さんが今までの道程を終わらせる過程もあっというまに。「そういうこと」って、事前にいろいろ考えているよりも、案外なんてことなく終わってしまった、ってことかもしれないけど。

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では本題。

 みくりちゃんと平匡さんのの関係は当初「雇用関係」だったが、それに「恋人」が追加されていちゃいちゃタイムをもつようになったことで、家事代行の仕事とプライベートの領域があいまいになってきている。

この仕事とプライベートの融合について、2人がどう認識しているのか推測してみたい。

 

みくりちゃんにとって、家事は「雇用関係」から発生する仕事。いくらプライベートに仕事が侵食されているとはいっても、家事は仕事だからきちんとやっている。

もし状況が変わって雇用契約を解消することになれば、みくりちゃんは平匡さんの家に同居する必要がなくなる。雇用関係がなくなってもつながっていられる、より強い公的関係=結婚でつながりたい。でも結婚願望がない(とみくりちゃんは思っている)平匡さんにそれは望めない。

結婚という公的な契約がなかったとしても、信じられるなら、それで一緒にいられるなら、どんな形でもいい。

みくりちゃんにとって、結婚とは雇用契約とは全く別の、より強い契約である。

 

平匡さんにとってはどうだろう。

みくりちゃんと恋人どうしになってからも、みくりちゃんが家事をするのは仕事なのだと頭ではわかっている。けれどどこかで「自分のことを好きだからやってくれている」という気持ちが入ってきたんじゃないだろうか。自分のことを好きなら、仕事じゃなくても同じことをやってくれるんじゃないかと。

リストラを言い渡され、収入が減って「雇用関係」が継続できなくなったら、みくりさんは出て行ってしまうかもしれない。どうやったら今の生活を続けられるのか。

そうだ結婚しよう。雇用契約が結婚に代わる以外は何も変わらない。

平匡さんにとって、結婚とは雇用契約を強化したものに過ぎない。いわば雇用関係の継続的契約である(平匡さんはこのことには無意識であるが)。

いやもちろんそれだけじゃなくて、日野さんの「結婚は生き抜くための1つの知恵」という言葉に共感したりして、結婚によって成立するお互いに対し責任を持つ対等な関係を望んでいる、ということもあるとは思うんだけど、「結婚」に対するみくりちゃんとの認識の違いは大きい。

 

これがみくりちゃんの側からみると「愛情の搾取」になる。

 愛情の搾取とは「好きならやってくれる」または「好きな気持ちにつけ込む」とも言う。

「仕事だからやっている」みくりちゃんと、「(平匡さんを)好きだからやっている」と思い始めた平匡さん。雇われる側と雇う側の立場の違いが認識の違いにつながり、それが「愛情の搾取」になってしまった。

無意識に愛情の搾取をしている場合、自分の行為が「愛情の搾取だ」と気づくことは難しい。2人はこの問題をどう解決していくのだろうか。

 

 来週はいよいよ最終回。

 

ちょっと待って、その前にひとこと言わせて。平匡さん。

やはりプロポーズの前に転職先を見つけるべきでしたよ。みくりちゃんを繋ぎとめたい気持ちが強いからとはいえ、仕事を探していると見せかけてプロポーズするレストラン探しって、現実逃避としか見えないんですが。平匡さんらしくない!

 

おまけ

もう一組のカップル、 結婚願望があまりない、百合ちゃんと風見さん。

17歳の年齢差は大きい。自分にあてはめると、20代前半の相手。うん、ないない。

でも年齢差なんて、結婚しなきゃというプレッシャーがなければどうでもいいことかも。

関係ないけど百合ちゃんが美術館デートではいていたスカートが素敵だった。けど高そうだなあ。

 

 

『逃げ恥』について書いた記事

 

 

umisoma.hatenablog.com

 

 

 

 

引っ越してきました

fc2ブログからはてなブログへ引っ越してきました。

ついでにブログタイトルも変えました。

 

他の方のブログを参考にさせていただき、fc2ブログ→はてなダイアリーはてなブログと移行しました。あっというまに移行できました。

 

移行が終わり「はてなブログは使いやすいと聞くけどどうかしら」とあちこちいじっていたら、どこか要らないところをクリックしたらしく、移行した記事をすべて削除してしまいました・・・。なんてこと。

はてなダイアリーの記事は残っていたので、ダイアリーからブログへのインポートを一度削除し、再度ダイアリーからブログへインポートしました。問題なく移行完了です。

 

そんな感じでまだ使い方がよくわかっていないので、お見苦しいところもあるかもしれませんが、徐々に慣れていくと思います。

しばらくの間ご容赦くださいませ。

 

どうぞよろしくお願いします。

 

『逃げ恥』第9回 平匡さんと風見さん、2人の男について

『逃げ恥』第9回。

なんとなく正体がつかめない人だった風見さんは、第8回から輪郭が見えてきた。第9回、この人の優しいところが見えて、いつのまにか、私、平匡さんより風見さんの方を好きになってるかも。
対して平匡さん。今まで、風見さんと立場を変わってもいいだの、キスした後仕方ない感じでハグしたりだの、近寄る気配を見せてみくりちゃんを突き放し、みくりちゃんに「ずるい」と言わせていた自尊感情の低い男。でも今回の「ずるい」は、今までとは違った。
風見さんと平匡さん、この2人の男について私の個人的な思いを書きたい。

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第8回から、私の中で風見さん株が急上昇。顔だけのイケメンじゃない、というのはうすうす気づいてはいたんだけど、第9回はかっこよかった。
風見さんは思ったことを正直に相手に言う率直さがあり、この率直さをどう捉えるかによって好き嫌いが分かれると思う。
この人の率直さはきっと、表面だけ取り繕っていい顔してつきあっても、仕方ないと思っているから。率直な言葉は人を傷つけることもあるし、つきあいの浅い人には誤解されやすいだろうけど、表裏がないことを理解すれば、信用するに値する人とわかる。
例えば、会社で、平匡さんに自分の思っていることを伝えるシーン。
「正直に言うと、みくりさんが好きです。」「津崎さんのことも好きです。」
津崎さんのことも好きだから、心配させるようなことは自分はしない、と伝えている。
そして第8回で百合ちゃんの車の中で自分の過去の話をしてとき、平匡さんが起きているのに気づいてたことも、言っちゃうのね。
この過去の話というのは、風見さんが中学時代にはじめてつきあった彼女に「私は地味だしかわいくないし風見くんとは違う」とふられたとき、彼女は風見さんがどう思っているかを考えず自分のことしか見ていなかった、そんな彼女に何も言ってあげられなかった、という話。
これは、平匡さんに対して、みくりちゃんの気持ちをちゃんと考えてあげてるのかというメッセージ。風見さんは、自分は性格悪いから、平匡さんが起きているのを知っててわざとその話をしたのだと話す。
こんなまわりくどい気持ちの伝え方ができるのは、駆け引きができる人。こういう人って、これまで他人との関わりの中で、自分を理解してもらえないジレンマを抱えてきた人なんじゃないだろうか。その結果、理解されない人には理解されなくてもいいという割り切りと、でも好きな人とは理解しあいたいという意志で、人づきあいをするようになったんじゃないだろうか。

風見さんで気になったのはもうひとつ、風見さんの優しさがストレートに伝わるシーン。
外で思わず涙を流した百合ちゃんを、まわりの人の視線から隠すために壁ドンするところ。しかも、百合ちゃんを気遣って、自分も涙を見ないよう視線をそらす。
かっこよすぎます。
こんなことをされて心が動かない女がいるだろうか。
百合ちゃん!


そして。平匡さん。
ずっと自分の気持ちを押さえつけ「雇用主」の立場に自分を押し込めていたせいで、なかなか「恋人」の立場にシフトできず、雇用関係のシステムの再構築とか言い出す。それを言われたときのみくりちゃんの目が「そうじゃなくて・・・!」と全力で訴えている。
いつまでも事務的でシステマチックな平匡さんに不満がたまってきたみくりちゃんに、平匡さんはようやく
「みくりさんはもう簡単に手放せる人じゃないんです」
と言う。でもこの言い方がまた事務的。「雇用主」の発言とも「恋人」の発言ともとれる。
だから言ったみくりちゃんの「ずるい」。
「雇用主」なのか「恋人」なのか、はっきりしてほしい。自分は恋人として平匡さんを好きなのに、どっちつかずの言葉で惑わさないでほしい。
「私ばっかり好きで」というみくりちゃんの言葉に、あっさり「好きですよ」と言う平匡さん。え、前から言ってますけど、みたいな感じで。
この言い方がやっぱり事務的なんだよなあと思い、そうかと気づく。平匡さんは、好きという気持ちの表し方がわかってないんだ。
けど事務的なのはここまで。みくりちゃんが怒っているのは嫉妬からだと思った途端、どうでしょう。
嫉妬してくれたんですかと訊くとき、すでに顔がにやけている。
嫉妬されるなんて生まれてはじめてだし、怒ってるみくりちゃんもとんでもなくかわいいし、もう笑いが抑えられない。
って、そこで笑うか平匡さん。
あなたのつれない態度に今まで傷けられてきたみくりちゃんを思い、つい「笑うな」と言ったのは私だけではないだろう。
なのに、「ずっと・・・僕のこと好きならいいのになって思ってました」って!
これを言われたらもう怒れないよ。
ずるい。

というか、このへんから星野源のエロさが平匡さんに流れ込んでいる気がして、どうも今までの平匡さんになかったエロさが見える気が・・・。
自然にハグしちゃうし、平然と「一緒にいますか?朝まで」とか言っちゃうし。その表情さえ今までのオタオタしていた平匡さんと違うじゃないか。
ともあれ、彼女いない歴35年だった平匡さんがその年月を猛烈な勢いでうめ、ようやく恋愛というものに肌をなじませてきたみたい。


おまけ 百合ちゃんの涙
やっぱり気になった、百合ちゃんの涙のシーン。
会社のためにと一生懸命がんばっているのに、何かあるとすぐに「あの人は結婚してないから」と言われる。こういうことは実際にある。
仕事上のことをプライベートなことであてこするのは、ほとんどの場合嫉妬からだと思うのだけど、わかっていても言われた方は落ち込む。
落ち込んだとき、じゃあこんな思いをしながら何のためにがんばってるのかと自分に訊いたら、家族がいる人なら「家族のため」かもしれないし、あとは例えば「お金のため」かもしれないけれど、そういうものがなければ、百合ちゃんのように、自分の後ろにいる若い子たちが自分を見て勇気づけられるかもしれない、そのためにかっこよく生きなきゃ、と思うのかもしれない。
これは、けっこうしんどいことではある。子どもとかお金は目に見えるものだけど、自分の後ろにいる若い子たちの姿は見えない。それ以前に、いるかどうかすらわからない。
本当は、自分の後ろにいる若い子たちというのは、自分を奮い立たせるために作り上げた幻想なのかもしれない。
百合ちゃんが涙を流してしまったのは、風見さんにそれを見透かされて、自分ががんばってるのは、ただひたすら自分のためでしかない、自分はひとりなんだと確認してしまったからだと思う。

自分のためだけにがんばるというのは自分がもういいと思えばいつでもやめられる、でももう少しがんばりたい、だから幻想を作ってそのためにがんばる、でも幻想はやはり幻想でしかない。
じゃあ何のためにがんばればいいんだろう。百合ちゃんはその答えを見つけられるんだろうか。もし見つけられるなら、その答えを私も知りたい。

『逃げ恥』について書いた記事
umisoma.hatenablog.com
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『逃げ恥』を見て結婚と家事の関係について考えた

 『逃げ恥』を毎週楽しみに見ている。放送は第8回まで終わったところ。

第8回は、平匡さんに拒絶されたみくりちゃんが実家に帰ってしまい、2人が離れて自分と向き合う回だった。あいかわらず新垣結衣ちゃんはかわいかったけど、前半は中だるみ感があったように思う。あの夜の拒絶シーンを平匡さんバージョンとみくりちゃんバージョンで2回見て2回痛い思いをするのはつらかった。

1番よかったのは、平匡さんがみくりちゃんと電話で話すシーン。特に平匡さんがずっとコンプレックスだった女性経験がないことを伝えるところ。
コンプレックスを受け入れるのは難しいし、それを他人に伝えるのはものすごく勇気がいる。だけどこのコンプレックスを乗り越えなければ、みくりちゃんを傷つけ続けることになる。平匡さんはみくりちゃんと向き合うために、今まで「自分だけ」を見てきたことを反省し、コンプレックスという壁を壊した。心のテリトリーをみくりちゃんに向かって開いた重要なシーンだと思う。
大きな壁を越えて2人の関係はどう進展していくのか、次回が楽しみ。

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さて、第8回で「運命の相手にする」や「無料奉仕で家事」などのセリフを聞いて、「結婚と結婚生活における家事って何」とふと思ったので、ちょっと考えてみようと思います。

自分のことに関していえば、私は結婚願望があまりない。仕事して家事して、ひとり暮らしでもすごく大変なのに、2人分の家事をこなすなんて私には無理だと思う。小さい頃に母が子育てと家事に追われてキーッとなっているのを見ていたから、そう思うのかもしれない。
そういえば、今まで2人の人から「君との結婚生活を想像できない」という理由で別れを告げられた。やっぱり私は結婚向きの女ではないのだなあと妙に納得した。すごく悲しかったけどさ。

みくりちゃんと平匡さんがほかの夫婦と違うのは、契約結婚をしていて家事に対して報酬を払っているということ。この先2人が恋愛関係になって入籍しようということになったら、きっと家事に対して報酬は発生しない。
一般的には、家事は女性がやることが多い。私のまわりでも、飲み会のとき「だんなの夜ごはん作ってから来た」という友達はけっこういる。

男の人はどう思っているんだろう。
あるタレントさん(男性)が「どんなときに結婚したいと思うか」という質問をされたときに、「夜暗い家に帰ったとき」とか「忙しくて掃除や洗濯がなかなかできなかったとき」とか答えているのをTVで見たことがある。帰ってきたとき家が明るかったら確かにほっとするけど、掃除や洗濯はそれこそ家事代行を頼んでみては、と思う。男の人が結婚するのは相手に家事をしてもらうため?
別のタレントさん(こちらも男性)が「結婚したら相手にどんなことをしてほしいか」という質問をされたときには「目が覚めたとき、包丁のトン、トンという音が聞こえたら嬉しい」と答えていた。これはわかる。『逃げ恥』でも、平匡さんがみくりちゃんの握る包丁の音で目が覚めるというシーンがあった。朝の包丁の音は、子どもの頃に母親が握っていた包丁の音を思い出させる、穏やかで安心できる幸せの音なのだ。その音をもう一度聞きたいということは、その記憶を再現したいということなんだろう。だからこの音を聞きたいのはきっと男も女も同じなのに、包丁を握るのは女の方で、男はそれによる記憶の再現を享受する。この役割分担は、朝の包丁に限ったことなのか?

ここまで考えて、そうかと思う。
結婚するということは、幸せな記憶の構築をするということなんじゃないか。
そう考えると、清潔な衣服と部屋、安心して口にできる食事を提供する家事は、幸せな記憶の構築ための行為ということになる。

ここで先ほどの疑問に戻ってみる。家事は女がするべきものなんだろうか?
結婚が幸せな記憶の構築のためにするもので、家事はそのための行為だとすれば、家事は女がするべき、いや男もするべき、という問題ではないんじゃないか。どちらかがして、どちらかが享受するというのは、とてもアンバランスな関係だと思う。結婚=幸せな記憶の構築は、構築する側とそれを享受する側ではなく、お互いに努力してやっていくことなのではないか。
お互いの努力。これはみくりちゃんのお母さんの「意志がなきゃ続かないのは、仕事も家庭も同じ」という言葉にも通じてくる。
そう意志が大事。やはり享受するだけではダメなんだ。

それにしても。結婚してないしその予定もない人間が結婚と家事との関係について考えると、机上の空論だな、やっぱり。
最近の私は、毎週みくりちゃんの仕事ぶりを拝見しているからか、日曜日に今までよりちょっとだけがんばって掃除をしている。みくりちゃん、ありがとう!ほんのちょっとだけ部屋がきれいになりました。


『逃げ恥』について書いた記事
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『プリンセスメゾン』第4回感想

10/25からNHKBSプレミアムで放送しているドラマ『プリンセスメゾン』を見ている。特に期待せず第1回を見たら、じわじわとしみてくる切なさがあって、毎週録画している。


森川葵さん演じる居酒屋勤務の26歳独身、沼越幸がマンションを買うという夢を追う話。その回によってスポットがあたる人物がいて、表ではそつなく日常生活を送っているように見えても、実はみんないろんな思いを抱えて生きていることが描かれる。
全体的に適度な脱力感があるので油断して見ていると、心のすきまに刺さるセリフを突然持ってこられてぐさっと来る。

例えば、バリバリに仕事ができて「ひとり身の希望の星」と呼ばれている(推定)40代の女性が、夜寝るときにつぶやいた「私いつ死ねるんだろう」。
なかなか、このセリフは入れられないなあと思った。
でも私も思うときがある。いつまで生きていかなきゃいけないんだろう。

女がひとりで生きていくことは、今や特別なことではないと思う。けれど男よりも女の方が世間の風当たりは強い(ような気がする)。誕生日やクリスマスも女がひとりで過ごすと言うと、殊更「かわいそう」という顔をされる(ような気がする)。
こういうことを言うとよりいっそう「かわいそう」という顔をされる(ような気がする)ので言わないが、クリスマスだからといってケーキ食べたりプレゼントあげたりとか、もう面倒。盛り上がるのはサンタクロースを待つ子どもたちとカップルで過ごす学生たちで十分じゃないだろうか。世間の波に乗ってはしゃぐのは、もう卒業。疲れちゃった。

ひとりというのは、守るものがないだけ自由だけど、どうしても踏ん張らないといけないときに支えになるものがないということでもある。自分ひとりの意志だけで前に進むというのは、ときどきしんどい。
ドラマの中でその女性はこう言う。
「女がひとりで生きていくのって、覚悟が必要よ」
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