糸をほぐす

頭の中のからまった糸をほぐすように、文章を書いています。

『真田丸』最終回 滅びの美学ではなく

終わっちゃった。終わってみればあっというまだった。さよなら、2016年。まだあるけど。

真田信繁(幸村)が九度山から大阪に戻ってきて、ここからは滅亡まで一直線、最終回ではきっと華々しく散る滅びの美学みたいなものを見せるのだろうと思っていた。

でも違った。

このドラマが最後に見せたのは、どう死ぬのかではなくて、どう生きるかだった。

どんな終わりを迎えても、大事なのはいかに生きたか。

そして時間という試金石がその生き方を評価する。

だから信繁の最期のシーンは、想像していたようにパッと散るのではなく、静かに終わっていったんだろう。 

堺雅人さんの信繁は素晴らしかった。

  

ただ心残りも。

信繁と家康の戦場での最後の対峙のシーン。

馬上から家康を銃で狙う信繁。しかし信繁の弾丸が家康に向って撃たれる前に、応援に来た家康の息子秀忠の軍に、信繁は腕を銃で撃たれてしまう。第三者の介入で2人の対決という意味では決着はつかなかった。が、あそこは信繁に家康を撃ってほしかった。撃って、はずしてほしかった。

私は司馬遼太郎さんの「関ケ原」を読んでから、どの俳優さんが家康を演じても憎たらしくて仕方ないんだけれど、内野聖陽さんはその憎たらしさをすごくうまく出していたと思う。「はっはっはっは」と笑いながら腹の中で「何だよこいつ目障りだな」と思ってそうな表情とか、すごくうまい。ドラマの中盤以降は、家康が画面に映るだけでイラッとしたくらいだ。そのくらいうまかった。そんな憎たらしい家康が、状況を見、人の心を動かし、運に味方され幾度の危機を乗り越えてきたのを見ていると、もしかすると歴史が家康を選んだのかもしれないという気持ちになった。認めたくないけど。

だからそれを、ちゃんと見てみたかったと思う。家康憎しの私でも納得せざるを得ないくらいの、歴史が家康を選ぶところを。

 

全編を思い返すと、九度山での真田昌幸の死が記憶に残っている。あの方を見るために毎週「真田丸」を見ていた私は、しばらく昌幸ロスから抜け出せなかったよ。

それと第49回最後できりが「源次郎様(信繁)がいない世にいてもつまらないですから」と言うシーンはうるっときた。うざいうざいと言われていたきりが、次第にまわりのみんなから頼られるようになり、ようやく最後に信繁の心もつかむことができた。よかった。本当によかった。

 

ああ今年ももうすぐ終わりだ。


<追記 2017.1.31>

なんとなく、最終回の信繁対家康のシーンをもう一度見てみた。

銃を向けられた家康は、自分を撃っても徳川の世は盤石で、戦で雌雄を決する時代は終わり、信繁のような戦でしか生きられない男はもう生きていく場所がないと信繁に告げる。それに対し信繁は、そのようなことは百も承知、それでも父昌幸のため、秀吉のため、死んでいった愛する者たちのために家康を討たなければならないと答える。

最初に見たときは、家康と信繁の勝負はつかなかったという意図で、信繁に銃を撃たせなかったのかなと思った。

けれどそうではなくて、家康は信繁が手を伸ばしても届くことがないほど先の時代に行ってしまったということだったのかもしれない。戦で雌雄を決する時代は終わり。個人の感情で家康に銃を向けた信繁に撃たせなかったのは、そういう意味だったのかもしれない。

それにしても、ひさしぶりに真田丸オープニングテーマを聞いたけど、やはりいいですね。

 

★『関ケ原』 司馬遼太郎著 新潮文庫

ドラマではあっというまに終わってしまった関ケ原の戦いに焦点をあてて書かれた歴史小説関ケ原に至るまでの過程も丁寧に書かれています。主人公は石田三成。私は島左近が好きでした。格好いいです。家康はとにかく憎たらしい。

2017年秋、この小説をもとにした映画も公開されるようです。

岡田准一&役所広司が三成・家康に! 司馬遼太郎「関ヶ原」を映画化! | cinemacafe.net

 

 

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

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関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

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関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

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