糸をほぐす

頭の中のからまった糸をほぐすように、文章を書いています。

『アンナチュラル』第6、7回 名前、生きるという選択

「ミコト」という名前は、漢字で書いたらたぶん「命」。

ミコトの過去や今の仕事は、この名前とリンクしていく。

「いいよ、名前なんてどっちでも」

三澄さんではなく、ミコトさん、と呼びかけた六郎(私も今回から、久部くんではなく六郎と呼ぼう)にそう言ったミコトは、名前を変えても人は変わらないということを自分の身で知っている。

名前はただの記号。そこに意味や色を与えていくのは自分ではなく、自分の名前を呼ぶ他人の感情だと思う。

 

『アンナチュラル』を見ていると、『トゥルー・コーリング』というアメリカのドラマを思い出す。 『トゥルー・コーリング』も人の死や生きていたときのその人の思いと向き合うドラマだったからか。あんなに魅力があるドラマがシーズン2で打ち切りになるとは。本当に残念。

 

話を戻そう。

第6回、ミコトの同僚の東海林が殺人の疑いをかけられてしまう。

 同僚を友達と呼べるか。たまたま同じ職場だったから知り合った。じゃあ同じ職場じゃなくても、一緒にごはんを食べたり飲みに行ったりしてた?

「仕事がらみで知り合った人とはプライベートで会うほど親しくなれない」と言っていた知り合いがいたけれど(その人とは仕事がらみで知り合った)、 「たまたまそこにいたから知り合った」ということでは、仕事だろうがご近所さんだろうがなんだろうが同じなのに、仕事だけが違う気がするのはそこに評価や利害関係という要素が常につきまとうからだろうか。

同僚との関係は、特に評価が絡むとうまくまわらなくなる。自分に対する他人の評価、相手に対する自分の評価。どっちが上、どっちが下?他人の能力に対する嫉妬。

ミコトと東海林は?

「彼氏ほしがって、熱心に頑張っちゃってる私がバカみたい。バカだと思ってんでしょ。」

優秀な解剖医であるミコトに対する嫉妬が、東海林にはあるのかもしれない。

「まあいいけど。別にうちら友達じゃないし。」

「あ、そうね。ただの同僚だし。」

 

 同僚か、友達か。

けれど言葉はただの記号。どう呼ぼうが相手に対する信頼が減るわけではない。その人の仕事に対する信頼と、人としてのその人に対する信頼は、イコールではないけれど。

「お二人、仲がいいですね。長年のお友達のようで」

事件が解決し、ミコトと東海林に声をかけた木林に

「友達じゃありません。」

「ただの同僚です。」

「そう。ただの同僚。」

 と口々に言う2人。その人がいることで、毎日の仕事がちょっとでも楽しくなるなら、同僚でも友達でもなんでもいいんじゃない。

 

第7回のこのドラマの舞台は学校。今まで法廷や会社で、女性蔑視、過重労働 、仮想通貨などなど扱ってきたけれど、今回はいじめ、生存者の罪悪感、被害者/加害者問題と一段と重いテーマ。

そこに思うことはたくさんあるけれど、これだけ書きます。

「死んだやつは答えてくれない。許されるように生きろ」

中堂は、いじめが原因で自殺しようとしていた白井くんに言う。

死んだやつというのは、白井くんのクラスメイトの横山くんのこと。横山くんは、いじめられていた白井くんをかばったことでいじめられるようになり、それが原因で自殺した。

「生きる」という言葉を選ぶとき、死や、死までいかなくても狂気のような、暗くて深いものが見えている。 「生きる」という言葉には、「暮らす」や「生活する」と比べて、圧倒的な意志を感じる。

生きつづけるには常に何かを選択しつづけなければならないし、選択しつづけるには意志を持ちつづけなければならない。生きるということ自体が、生きることを選択しつづけているということなのかもしれない。生きることを選びつづけろ。

そして「許されるように」というのは、「許されるために」ではない。死者のために、ではなく、自分のためにということ。

中堂の言葉は、白井くんだけではなく、ミコトにも届く。

  

ミコトがおにぎりを食べるシーンが好き。

どんなときでも朝は来る。今日が昨日よりいい日でありますように。そのために、生きるために食べる。

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ミコトと中堂の仲を疑う六郎の嫉妬は、どうなっていくんだろう。