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糸をほぐす

頭の中のからまった糸をほぐすように、文章を書いています。

『クイーン・メアリー』の半生(出生からスコットランド女王退位まで)

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 ドラマ『クイーン・メアリー』より

『クイーン・メアリー』シーズン1の放送が終わって約2か月。続きが気になります。

メアリーロスをうめるために、メアリー・スチュアートの生涯について調べてみた。出生からフランスでの生活、フランソワとの結婚、スコットランドでの2度の結婚と女王退位までを書いてみようと思う。

 

メアリー・スチュアートの出自

メアリーの父はスコットランド王ジェームズ5世、母はフランスの有力貴族ギーズ家の一員マリー・ド・ギーズ。ジェームズ5世はイングランド王ヘンリ7世の孫であり、メアリーはイングランド王の曾孫であったのでイングランドの王位継承権があった。

メアリーには腹違いの兄がいた。ドラマにも登場するマリ伯ジェームズ・スチュアート。ジェームズはプロテスタントだった。ドラマではシーズン1第18回『祖国の危機』に登場し、スコットランド国民はフランス人のマリー・ド・ギーズではなく、メアリーの統治を望んでいると言い、メアリーにスコットランドへの帰還を促す。しかしスコットランドへ向かう船の中でメアリーを殺害する計画があることが明らかになる。この計画にジェームズ・スチュアートが加担していたのかどうかはわからずじまいだった。愛人の子として庶子の扱いを受けるジェームズ(のちに嫡出子と認められた)は、女王という立場の妹メアリーに複雑な思いを抱いていただろう。

一方、メアリーとイングランド王位を争ったエリザベスは、イングランド王ヘンリ8世の娘。ヘンリ8世は生涯で6度結婚し、エリザベスの母アン・ブーリンは、ヘンリ8世の2人目の王妃だった。エリザベスが生まれたとき、男子ではなかったことにヘンリ8世は落胆した。その後も男子を産めないアン・ブーリンから気持ちが離れ、ヘンリ8世はアン・ブーリンを不義密通の罪で処刑した。このことでエリザベスは庶子となった。

 

メアリーの結婚

スコットランド女王として、結婚は常に国益が優先して考えられた。母マリ・ド・ギーズが選んだのは、フランスの王太子フランソワだった。父の死により生後6日でスコットランド女王となったメアリーは、他の者を王に擁立しようとする人々から命を狙われた。メアリーを守るため、マリー・ド・ギーズは6歳のメアリーをフランスへ送った。

この時代のスコットランドについて過去記事で書いています。

umisoma.hatenablog.com

成長し、背が高く優雅と威厳を持ち合わせた美貌のメアリーは「フランス宮廷の華」と呼ばれたという。6か国語を話し、ルネサンス時代の文化を吸収し、詩作、音楽、絵画など芸術にも才能があり、馬術や舞踏など体を動かすこともうまくこなした。

夫フランソワは、生まれつき体が弱く体も小さかった。フランス王になるにしては頼りなかったかもしれないが、メアリーとフランソワは幼少時から一緒に過ごした幼なじみでもあり、結婚しても仲がよかったらしい。

1558年にメアリーとフランソワは結婚した。のちのメアリーのたどった道を思うと、この時代が最も幸せだったかもしれない。

1559年にフランス王アンリ2世が死去し、フランソワがフランス王となった。しかし、フランソワは1560年に16歳で亡くなり、メアリーは未亡人となった。

 

スコットランドの宗教対立

スコットランド宗教改革の中心となったのはジョン・ノックスだった。

彼は当初カトリックの聖職者を務めていたが、ルター主義的改革のために働くようになった。宗教改革者としてフランスと戦った彼は、フランス軍に捕囚された後、メアリー・テューダーの「カトリック反動」時代にはジュネーヴに亡命して、カルヴァンの影響を受けた。1555年にはいったんスコットランドに帰国し、59年に再帰国後、カルヴァン主義的改革の支持者をえて、カトリック教会を攻撃し、プロテスタント教会体制を樹立した。

スコットランドの歴史』リチャード・キレーン著 彩流社

 1560年、スコットランドでは会衆指導派(プロテスタント)は、スコットランドプロテスタント国であると宣言した。彼らはミサを禁止し、これは「スコットランド信条」として知られる文書で成文化された。

その翌年、メアリーはスコットランドに帰国する。すでにプロテスタントを受容していたスコットランドでは、幼少期からカトリックの教えを受けてきたメアリーにとってやりづらいことも多々あっただろう。メアリーはノックスを呼び寄せ、私的なミサを執り行いたいと主張するが、ノックスはそんなメアリーを非難した。ノックスはメアリーとの討論で一歩も引かなかった。メアリーはカトリックプロテスタントのどちらかを優遇するのではなく、寛容策を取るようになった。

 

メアリーの2度目の結婚

未亡人とはいえ若く美しいメアリーには、多くの縁談が持ち込まれた。メアリーが再婚相手に選んだのは、ダーンリー伯爵ヘンリー・スチュアートだった。

エリザベスはこの結婚に反対した。ダーンリーは、ヘンリー8世の姉マーガレットの孫にあたり、イングランド王位継承権を持っていたので、メアリーとダーンリーとの結婚は、メアリーのイングランド王位継承権を強めることになる可能性があった。また、カトリックのメアリーが、熱心なカトリック信者のダーンリーと結婚すれば、ローマ教皇スコットランドへの発言力が強まる可能性もあった。しかし、メアリーは反対を押し切り、1565年、ダーンリーと再婚した。

最初は仲良く結婚生活を送っていた2人だったが、1年もたたないうちにメアリーはダーンリーに愛想をつかしてしまう。メアリーはイタリア人秘書のデビッド・リッチオを寵愛する。リッチオの影響で、それまでカトリックプロテスタント対立に対しメアリーがとっていた宗教的な寛容政策は弱められ、カトリックを積極的に推進する方向に転換された。ダーンリーは、メアリーとリッチオの仲を疑い、宗教政策に不満を持つ貴族たちと一緒にホリルード宮殿に押し入り、リッチオを殺害した。

このとき、メアリーは妊娠していた。1566年、メアリーは男の子(のちのジェームズ6世)を出産した。子どもが生まれても、メアリーとダーンリーとの仲はもとに戻らなかった。

 病気になったダーンリーを、メアリーはエディンバラ近くの館に移した。1567年2月の夜、ダーンリーのいた館が爆破され、ダーンリーは死亡した。この事件はボズウェル伯爵が首謀者とされ、メアリーもその共犯だと噂された。

 

メアリーの3度目の結婚

ボズウェルはその後メアリーを誘拐し凌辱したが、この行為はメアリーの同意を得ていたと言われている。ボズウェルは妻と離縁し、メアリーと結婚した。結婚は、ダーンリーの死亡から3か月しか経っていなかった。国民はこの結婚に反発し、反乱へと発展していった。貴族たちはメアリーを退位させ、彼女の息子で生後13か月のジェームズ(のちのジェームズ6世)を即位させた。ボズウェルは逃亡中につかまり、獄中で狂死した。

 

メアリー退位後

メアリーの息子ジェームズの摂政には、マリ伯ジェームズ・スチュアートが就いた。メアリーは息子ジェームズにカトリックの洗礼を受けさせていたが、ジェームズ・スチュアートは彼にプロテスタントの教育をした。

メアリーは城に幽閉された。1568年に脱出し、6000名の兵士を集めたが、マリ軍に敗れ逃亡した。馬で駆け漁船を乗り継ぎ、元女王としては耐え難いような逃亡生活を送ったと言われている。何が彼女を動かしていたのだろう。女王の地位の奪還か、自分を退位させた者たちへの復讐心か。

スコットランドからフランスに渡る選択肢もあったが、メアリーが助けを求めたのはエリザベスのいるイングランドだった。25歳のメアリーは、その後イングランドで幽閉生活を送り、44歳で処刑された。

 

 

イングランドに渡った後のメアリーの生活については、日を改めてまとめたいと思います。

 

<参考文献> 

悪女たちの残酷史 (講談社+α新書)

悪女たちの残酷史 (講談社+α新書)

 

 

図説 スコットランドの歴史

図説 スコットランドの歴史

 

 

 『クイーン・メアリー』について書いた記事 

umisoma.hatenablog.com