ひとり旅、非日常と日常の境目
ときどき強烈に、東京を出たい!と思う。
日々の生活について考えなくていい時間が欲しい。非日常に入り込みたい。
そういうときは、たいていひとり旅になる。
「ひとり旅が好き」と、友達2人と飲んでいるときに言ったら「ひとり旅の何が楽しいのかわからない」と2人に言われてしまった。ひとり旅本もひとり旅らしい人もけっこう見かけるので、意外だった。
ひとりでいるよりも、誰かと感情を共有したいのだという。
感情の共有か、そうかー。そういうものを求めることを忘れていた。
ひとり旅では、孤独と不安を全部ひとりで引き受ける。ひとりでは何もできない自分と、意外にひとりでなんとかできてしまう自分を経験するのが楽しいのかもしれない。
ひとりで暮らして、仕事も何度か変わって、毎日のようにはじめて出会う人がいて、こんな今の生活がもはや旅のような気がすることがある。
生活自体が旅なら、ここは日常であり非日常でもある。その境目はあいまいか、存在しない。この世界でも、なんでも起こるのだ、きっと。楽しいことも不思議なことも恐ろしいことも。ちゃんと見ていこうと思う。
話は変わりますが、このあいだ、ハードディスクに録画が残っていた『逃げ恥』の恋ダンスをなんとなく見てみた。
なつかしいなあ。ちょうど1年前なんだな。あいかわらず、新垣結衣ちゃんの笑顔に癒され、石田ゆり子さんの美しさに見とれる。最近何かにエネルギーを取られて疲れて、ブログも書けていなかったけれど、また書けそうな気がする。
どうして恋ダンスをみつけたかというと、録画したまま見ていなかった映画『パリ、テキサス』を見たときに目についたからだった。
いい映画だった。やはり旅だ。旅に出よう。
★『パリ、テキサス』 (1984年、ヴィム・ヴェンダース監督)
ロードムービーの傑作という評判を裏切らない。
離れても忘れられない思い、それが人と人を引き寄せ、寄り添いあるいはその思いゆえに再び離れていく。
アメリカの乾いた大地をバックに流れるギターの音が印象的。
『SHERLOCK』東の風が吹く
シャーロックロスでしばらく感想が書けなかったけれど、もうそろそろ書いておこうと思います。
シーズン4の最終エピソード、正直言うとあまり好きではなくて、ユーラスの実験はあまりに子どもっぽいし(最後まで見ればそれが狙いなのかもなと思うけれど)、モリアーティの動画はもうちょっとセンスよく作れなかったかジム!と言いたくなる(S2E3『Reichenbach fall』でシャーロックが乗ったタクシーのTVにモリアーティの画像が映るけれど、あれもまあセンスがあるんだかないんだかという感じだったので、彼はああいうのが好きなのかも)。
が、何度か見るうちに、こういう終わり方もありかな、という気になっています。
子どもの頃から離島の牢獄シェリンフォードで過ごしていたユーラスが、今になって突然シャーロックに近づいた理由は、ジョンという存在が現れたからなのだと思う。彼女にとって、そのことはモリアーティをシェリンフォードに呼び出させるほど大きなことだった。
ユーラスはモリアーティが自分と同じものを持っていると感じたのだろう。それはきっと、自分の思いに気づかない相手をこわしたいという衝動。手に入らないのなら、いっそこわしてしまおう。2人とも賢いのに短絡的、いや知能が高いだけでは賢くないということか。
ユーラスの計画に加担することで、モリアーティは死後の楽しみをみつけたのだ。自分の死後、シャーロックがモリアーティの録画を見たときの顔を想像して、にやにやしていたんじゃないだろうか。でも、シャーロックがメアリーに撃たれて瀕死のとき、シャーロックを死の世界へ呼ぼうとしていたモリアーティはまったく楽しそうではなかったけど。自殺願望があったのに、死の世界は思ったほど楽しくはなかったのかもしれない。
ユーラスとモリアーティの大きな違いは、生きることに対する欲の強さ。退屈な世界をただ生きているだけのモリアーティに対して、ユーラスは生きることに執着があった。そうでなければ、シャーロックに助けを求めたりしなかった。
ユーラスはシャーロックに素直に「助けて」と言えなかったのだろうか。
彼女はフェイス・スミスに変装して221Bでシャーロックと会っている。そのときシャーロックに言った
「You're my last hope.」
という言葉は本音だったのかもしれない。
大事に思う相手にさえ、別人になってしか本音を言えないなら寂しい。
シェリンフォードでユーラスは、シャーロック、ジョン、マイクロフトの3人に対し、いくつかの実験をする。人の命を粗雑に扱うその実験は3人にとって過酷なもので、ユーラスは3人が実験を進めるためのモチベーションを維持するため、飛行機に乗った女の子が助けを求める声を聞かせている。
マイクロフトは、その女の子がユーラスだと感づいていたようにも見える。マイクロフトは3人の中で1番ユーラスのことを知っているし、子どものユーラスが赤ひげをどこかへ隠した理由もわかっている。
感づいていながらそのことを言わなかったのは、そこまで妹を追い込んでしまったことに対する責任を感じていたんだろう。ユーラスが、マイクロフトとジョンのどちらかを選ぶようシャーロックに指示したとき、自分を撃てと言ったのもきっとそのため。
それと妹に対する愛情もなかったわけではない。
それは、すべて終わってユーラスがシェリンフォードへ連れ戻された後のホームズ家の会話で
「whatever she became,whatever she is now,Mycroft,she remains our daughter.」
と言った彼らの父に、マイクロフトが
「And my sister.」
と答えたことからもわかる。溶けないiceではないのだ、彼も。
シェリンフォードでシャーロックたちがモリーのだと思った棺は、実はユーラスが自分のために作ったものだったかもとも思う。このままだと飛行機は墜落するという恐怖、死への覚悟。それともあれはやはりモリーのもので、モリーに対する嫉妬からだろうか。
ユーラスがしてきたことは、シャーロックをシェリンフォードに呼び寄せるためにしたことで、それはただ自分に気づいてほしかったから。
不安。嫉妬。愛情。孤独。
感情が人の判断を狂わせると言いながら、ユーラスは自分の感情に振り回されていた。コントロールすることもできず、その表し方もわからなかったのだと思う。子どもの頃のように。
ずっと不在とされていたユーラスの存在が戻り、これからはホームズ家のどこか欠けていた家族の形がまた別の形へと変わっていくのだろう。
「東の風」と言えばドイルの原作では、『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』に出てくる。
・・・ホームズは月光に照らされた背後の海をゆびさし、感慨をこめて首をふった。
「東の風が吹きはじめたね、ワトスン」
「東からじゃないだろう。とても暖かいよ」
「ああワトスン!”きみは移り変わる時の流れに流されない、一個の確固たる定点だ”。・・・」
『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』創元推理文庫 深町真理子訳
訳注によれば
イギリスでは”東の風”は北海を超えてくる冷たい風で、ホームズはもとより比喩的な意味で使ったのだが、ワトスンは字義どおりに受け取った。いかにも”定点”のひとらしい、昔ながらのワトスンのそのままの姿がここにある。
私はこの場面がとても好きです。ホームズシリーズの中でも1番好きかもしれない。知り合ってから何年も経ち、会わない期間もあり、それでも変わらない2人の関係が伝わってくる。
『SHERLOCK』シャーロックとジョンの関係を読む(シーズン2-3)
最終回を目の前にして、このテーマは今さらなんだけれど。
やっぱり書いておこうと思う。
シーズン1でシャーロックとジョンの関係は、お互いに探り探り近づいていく過程だった。
シーズン2では、シャーロックはジョンに対して気持ちを言葉で伝えようとするくらいに成長している。バスカヴィルでは傷つけたジョンにお世辞を言って機嫌を取ろうとする。
シーズン1で無神経なシャーロックに腹を立ててばかりいたジョンは、シーズン2では、シャーロックはこういうやつなんだと彼を受け入れ(あきらめ)、シャーロックの扱い方を心得てきている。無神経なシャーロックを受け入れられるのは、シャーロックが自分を1番に思っていることをわかっているからだと思う。相手から向けられる愛情の深さで、相手の欠点を許せる容量は変わる。
そんなふうに大事に思っている友達が死んでしまう。ジョンのシャーロックのお墓の前での告白(あれは愛の告白にしか見えない!ライヘンバッハのエピソードでは、シャーロックはモリアーティとジョンに告白されるのだ)は、何度見てもじんと来る。
シャーロックの自殺偽装は、ジョンからすれば、シャーロックに対する信頼を拒絶されたようなものだったと思う。.
ロンドンへの帰還をジョンが喜んで迎えてくれると思っていたシャーロックだったけれど、戻ってみればジョンは自分をなかなか許してくれないし、メアリーという女性がジョンのそばにいる。原作でワトスンがホームズの帰還を迎えたようにはいかない。
(BBCのドラマ『名探偵ポワロ』の『ビッグ・フォー』の回で、死んだと思っていたポワロが帰還したときに相棒ヘイスティングスが驚き喜んで迎えたようにもいかない。このあいだこのドラマの録画を見ていたら、マイクロフト役のマーク・ゲイティスと彼のパートナーのイアン・ハラードの名前が画面に出てきて驚いてWikiで調べたら、『ビッグ・フォー』はこの2人が脚本を書いたらしい。どうにも、ヘイスティングスがジョンに、ミス・レモンがミセス・ハドソンに、ジャップ警部がレストレードに見えてしまった。)
モリーを助手に事件を調べながらも、頭の中でジョンの声が聞こえてついそれに返事をしてしまうシャーロック、医者の仕事をしながらも今頃シャーロックは調査をしているだろうと考えてしょっちゅう時計を見てしまい、あげくのはてに診察に来た老人をシャーロックと間違えてしまうジョン。もう、早く会えばいいのにー。
マグヌセンによるジョンの危機をシャーロックが救うことで、2人はまた一緒に事件の調査を始める。だけど人は、相手に拒絶されたと思ったあと、その相手を100%許すことなんてできるんだろうか。人とのつきあいを長く続けていくには、相手を100%許せなくてもそのことまで含めて相手を受け入れていかなければいけなくて、ジョンはきっとシャーロックに対してそうすることを選んだのだと思う。
結局ジョンはシャーロックを許すしかないか。自分がメアリーと結婚することで、ジョンとの関係が変わってしまうんじゃないかと子どものように不安になっているシャーロックを見たら、許さないわけにはいかない。それに結婚式でのシャーロックのスピーチ。建前を言わないシャーロックだと知っているからこそ心を動かされる。
S3E3で、シャーロックがメアリーをレンスター・ガーデンズの隠れ家に呼び出してメアリーの射撃の腕前を試し、メアリーのジョンに対する気持ちを確認する。メアリーがマグヌセンの部屋でシャーロックを撃ったときにわざとはずしたのなら、メアリーはジョンを守るためにシャーロックを撃ったのだとわかるから。
メアリーがジョンとの結婚を隠れ蓑にしたかっただけなのか、本当にジョンを思っているのか、結果は後者だったけれど、それをシャーロックに告白するところをジョンに見せるなんて、ジョンにとっては酷なことをするよなあ、シャーロックも。ジョンを思ってしたこととはいっても。
ジョンとメアリーを守るために、シャーロックはマグヌセンを撃ってしまう。今まで、誰かを、何かを撃つのはジョンの方だったのに。
ああそれにしても『SHERLOCK』、本当に終わってしまうんだなあ。
余談です。たまっていたポワロシリーズの録画を最近見ているのだけど、『死との約束』の回にマーク・ゲイティスが出演していた。この人の身のこなしは独特だよなあ。顔が映らなくても彼だとわかる。エルキュール・ポワロとマイクロフト・ホームズを同じ画面で見られるなんて贅沢だ。
『死との約束』には、人は運命から逃れることはできないというたとえ話として、あるエピソードが出てきます。
ダマスカスの酒場で飲んでいた男がふと目を上げると死神が彼を見つめていた。男は、まだ死ぬはずがないと叫び、馬を急がせてサマラへやってきた。のどが渇いて井戸に向かうと、そこには死神が立っていた。死神と再会した男は、お前から逃げてきたのにこんなはずはないと叫んだ。死神は言った、ダマスカスで会った時私も驚いた、お前とはダマスカスではなくサマラで会う約束だったから。
『SHERLOCK』それぞれの孤独
シャーロックとモリアーティの感じている孤独について考えていた。このドラマは、人の孤独についても描かれていると思う。
シャーロックとモリアーティ、知能の高い彼らにとって世界は退屈。自分を満足させるレベルのものに出会いたいという欲求を抱えている。モリアーティにとってそれはシャーロックだった。退屈な世界の中で出会えた自分と同じ人、なんてこれはもう運命の人だ。言うまでもなく。
S2E3『ライヘンバッハ・ヒーロー(The Reichenbach Fall)』、このエピソードでは"owe"という単語が出てくる。見ていてふと思ったのは、この"owe"はここではほとんど"love"と同じ意味なのではないか。love youとI owe you、並べて見ても似てる。
頭の中で単語を置きかえながら見てみると、221Bを訪れたモリアーティがシャーロックの目を見て言う
「I owe you. 」
はなんというまっすぐな告白。
赤いリンゴに書かれた
I O U.
はラブレターか。他の果物ではなくリンゴというところが、アダムとイヴの罪の果実やら島崎藤村の『初恋』やら(こちらは日本人だけでしょうが)を連想し、ロマンチックでありなんとなくエロティックですらある。
この"love"が恋愛感情なのかはさておき、広い意味での愛ではあるんだろう。
ジョンもシャーロックのお墓の前で、死んだ(と思っている)シャーロックに対して同じ単語を使っている。
「I was so alone.And I owe you so much.」
ここも"owe"を"love"に言いかえても違和感がなく、泣ける。
マーティン・フリーマンの演技はすばらしい。このお墓のシーンもそうだし、結婚式でシャーロックのスピーチに徐々に心が動かされていく様子も何度も見てしまう。何度見てもぐっと来る。
モリアーティはきっと惰性で生きていた。彼が携帯の着信音にしている『Stayin' Alive』はなんとか生きる側にいようという意志だったのかもしれない。生きるか死ぬか、どちらを選ぶべきなのか、がモリアーティのthe final probremだった気がする。それはシャーロックも同じだと彼は考えていた。
モリアーティに生きる理由を見つけてくれるとすればシャーロックしかいない。ヒーローには悪役が必要。シャーロックにはモリアーティが必要。モリアーティはシャーロックに必要とされたかった。
シャーロックが病院の屋上から飛び降りなければ、ジョン、ハドソン夫人、レストレードを殺すと言われ、シャーロックはモリアーティに3人を殺す命令を止めさせようとする。
「I may be on the side of angels,but don't think for one second that I am one of them.」
ここでのモリアーティの感情の動きがわからない。太陽の光のせいで後光がさしているようなシャーロックを見て何を考えたんだろう。
「You are me.Thank you,Sherlock Holmes.Bless you.」
結果的にシャーロックがモリアーティに渡したのは生きる理由ではなく、死ぬ理由だったのだと思う。モリアーティは計画を遂行するために自らの死が必要だと思った。最後の問題の答えをシャーロックが見つけてくれたことに対するThank youではないかと思う。
それにしてもこのシーンの2人、顔近いな(笑)。
シャーロックとモリアーティの大きな違いは、ジョンという存在がいること。
シャーロックには生きる理由がある。天使の側にいる理由もある。
彼が抱える孤独は、ジョンが離れていくことで大きくなる。モリアーティの孤独がひとりでいる孤独なら、シャーロックの孤独は一緒にいたい人が一緒にいない孤独。
他人と向き合って生きていきたいと思うなら、孤独とも向き合わなければいけない。相手の不在は、物理的にその人がいないことでもあるし、その人の心が自分向けられていないということでもある。
S3E1『空の霊柩車(The Empty Hearse)』、221Bでのシャーロックとマイクロフトの会話。
「I'm not lonely,Sherlock.」
と言うマイクロフトにシャーロックは
「How would you know?」
と問う。友達がいたことがないマイクロフトが本当の孤独を知るはずはないと言いたいのか。ひとりの孤独よりも、ジョンがいない孤独の方が深いと知ったシャーロックだから言えたことだ。
ところでこの会話、いつぞやのお返しだろう。あのとき
「Sex doesn't alarm me.」
と言ったシャーロックを
「How would you know?」
とマイクロフトは鼻で笑ったのだった。そのセリフをそのまま返すなんて、シャーロック、けっこう根に持ってたのね。
ついに日本でもシーズン4の放送が始まりました。続きが見たい、でも最後まで見てしまうのはやっぱりさびしい。
2017年3月、ロンドンのシャーロックホームズミュージアム前で撮影。
妄想と幻想を浮遊する
通勤中の電車の中でふと思った。
妄想と幻想の違いって何だろう。
ウィキペディアで調べてみると、妄想とは
その文化において共有されない誤った確信のこと
らしい。
ますますわからない。共有されない誤った確信って何だ。
彼は私のことを好きに違いない、ようなものだろうか。
幻想は、美しい幻?心がとらわれるような。
もし、美しい幻にとらえられてしまったら、そこから逃れることなどできるだろうか。『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ著)で本の中の世界へ行ったバスチアンのように、自分のすべてを失いかけるまで元の場所に戻って来られないのか。『黒い本』(オルハン・パムク著)で失踪した妻を追うガーリップのように、自己と他者との境界があいまいになりアイデンティティが崩れていくのか。
・・・こんなことを考えるのも、妄想と呼ぶだろうか。うーん。
だけど、美しい幻の中で、誰にも共有されない誤った確信を持って、ふわふわと漂っていたいときもあるよね。
ちゃんと現実に戻って来られるなら、それとも、現実と妄想・幻想との境界線を平和的に融解できるなら、そんな時間をもつのもいいんだろうな、なんてことをふわふわと考えた。
1人の孤独と誰かといるときの孤独
再放送中のドラマ『SHERLOCK』シーズン2エピソード3を見て、「孤独」というものについて思うことがあったので書いてみます(『SHERLOCK』の考察については、別の日にまとめたいと思います)。
1人でいる孤独は、最初からさびしいとわかっている。一緒に話したり笑ったり悲しんだりしてくれる相手がいない、取り残される孤独。
人と一緒にいるときの孤独は、それとはまったく違う。人に理解されない孤独。親しい相手といるときほど深くなる。それを解消するのは難しい。というか、ほぼ無理なのではないかと思う。人が誰かを完全に理解することなんてないし、誰かに完全に理解されることなんてない(完全に理解されてしまったら、やりづらいことだって多々あるんじゃないだろうか)。
「Alone protects me.」
シャーロックのセリフ。誰かと理解しあいたいという期待が裏切られ続けたり、あまりにも理解不能な人と出会ったりすると、私も思う。ああもう1人でいい。人と一緒にいるのは、その相手のことを好きでも嫌いでも、とてもエネルギーを使う。
「誰も私を理解してくれない」と暗い部屋の中で何時間もひざを抱えた10代の頃から、もう随分な時間が過ぎた。今は理解されないことに慣れてしまった。他人を理解できないことにも。しかたないじゃない、と思う。
理解できないなんてわかっているのだから、どうでもいい他人とは理解しあわなくていい。でも、理解したいと思う人と出会ったときは、その気持ちを持ち続けるようにしている。それをなくしてしまったら、その人との関係は続かないから。
本当は、シャーロックのセリフには共感する。他人と理解しあうという決してできないことにエネルギーを使うより、他のことをした方がいいのかもしれない。
ジョンのように
「Friends protect people.」
とは今の私は言えない。1人の孤独と、誰かといるときの孤独、その2択がすべてとは思わない。けれどどちらかを選んで生きていくとしたら、どちらの生き方もあると思う。
『SHERLOCK』シャーロックとジョンの関係を読む(シーズン1)
このドラマについて今さら私が書くこともない、と前回『SHERLOCK』についての記事で書いたのに、書いてみると好きなものについて書く楽しさを止められなくて、性懲りもなくまた書いている。こんなにも世界中の人たちの興奮と想像力をかきたてるこのドラマってなんなんでしょう。
シャーロックとジョンの関係は、出会いから少しずつ変わっていって、お互いに信頼を深めていくように見えるけれど、ときどき2人の本心がよくわからないところがある。そんなわけで、再放送を見ながら2人の関係を振り返ってみたいと思います。
S1E1『A Study in Pink(ピンク色の研究)』
ジョンと出会うまで、シャーロックにとっての友達は頭蓋骨だけだった。
ジョンがはじめてベイカーストリート221Bを訪ねたとき、部屋にある頭蓋骨を杖で指し
「The skull?」
と聞く。
「A friend of mine.」
おそらく、ジョンと出会うまでのシャーロックは1人でいるのが当たり前で、自分よりレベルの低い人たちに合わせなければいけないなら、1人でいた方がいいと思っていたのだろう。しかしジョンと出会って、シャーロックは人と一緒にいることの楽しさと1人の孤独を知ったのだろう。いや、話しかけても反応しない骸骨を友達に見立てている時点で、孤独ではあったのかもしれない。小さな子が、遊んでくれる相手がいなくて人形相手に遊ぶように。話すことができない相手でも、「友達」とか「相棒」と呼べる存在がシャーロックには必要だった。
ジョンは戦地から戻ったばかりで、気力を失くしていた。マイクロフトが分析したように戦場が恋しかったのだろうか。マイクロフトがジョンを呼び出すシーンは印象的だけれど、変人の弟と一緒にいる男に対する兄の面接だったんだろうなあ。
退屈な日常より刺激的な戦場を求めてシャーロックと一緒にいようと思ったなら、シャーロックとジョンは似ている。
このエピソードでは、シャーロックの自己顕示欲が犯罪者に転じるきっかけとなる可能性があることを示唆される。それを止められるのはジョンなのだろうか。
しかしここで気になるのは、このエピソードでシャーロックは誰も殺していないが、ジョンは違う。躊躇なく冷静に人を撃つ。軍人の経験からかもしれないが、もっと深い心の闇があるのだろうか。
S1E2『The Blind Banker(死を呼ぶ暗号)』
エピソード1から少しだけ2人の関係性は変化している。
自分にとって特別な存在だと感じているジョンを、シャーロックは失いたくない。
だから、シャーロックは何者かに221Bで襲われたとき、ちょうど買いものに出ていたジョンにはそのことを話さなかった。ジョンが部屋を出て行ってしまうのが怖かったのだろう。
シャーロックに調査を依頼してきたセバスチャン(シャーロックの大学時代の同級生)を2人で訪ね、ジョンを紹介したときに言った、
「This is my friend.」
このfriendという単語を強調して言っているのを聞くとわかるように、シャーロックは自分にも友達と呼べる人がいるのだとセバスチャンに言いたかった。ジョンにはあっさりと同僚だと言い直されてしまうのだけど。
ジョンはこの時点では、シャーロックを友達だと認めていない。
このエピソードでは、2人の気持ちはすれ違い続ける。
失踪したスーリンの部屋でシャーロックが襲われたときには、油断して襲われたかっこわるい自分をジョンに知られたくなかったのか、そのことを隠す。そのことがジョンに、ないがしろにされているという気持ちを起こさせるかもしれないなんて思いもしない。ここで見えるのは、初めてできた友達への接し方におけるシャーロックの不器用さ。
中国の密輸団がかくれみのにしているサーカス団のショーの客として入ったときにも、デート中のサラと2人になりたいジョンに
「I need your help.」
とシャーロックは伝えるが、ないがしろにされていると思っているジョンには響かない。
S1E3『The Great Game(大いなるゲーム)』
シャーロックの気持ちがジョンのそれを上回っている。このエピソードでの、好きな相手(ジョン)に対するシャーロックの子どもっぽさが私はけっこう好きだ。
シャーロックは、はじめての友達に対してどう接したらいいかわからない。知識が偏りすぎているという欠点を指摘されたシャーロックは、自分には必要ない知識だと反論し、すねたようにソファーに寝転がりひざを抱える。何を言っても反論されるジョンは、外へ出かけてしまう。窓からジョンの姿を見るシャーロックは、かまってほしいのに素直になれない恋人のようだ。事件が起きるのを待ち望むのも、ジョンと一緒に事件を追うのが楽しくて仕方なかったからじゃないか。
レストレードから依頼の電話を受けたシャーロックは、スコットランドヤードにジョンを誘う。一瞬戸惑った顔をするジョンは、シャーロックの捜査に自分が必要だとはわかっていない。ここで原作のホームズのように
「心から信頼できる友人がそばにいてくれるかどうかで、僕の気持ちは天と地ほどのひらきが出てくる」
なんてシャーロックが言えたらね。
人質の命を最優先で考えるジョンに対し、ゲームを楽しんでいるように見えるシャーロックをジョンは理解できない。シャーロックとジョンのこの考え方の違いは、2人がどんなに親しくなったとしても決してうまらないだろう。
太陽系についてもう少し知っていたら、もっと早く事件を解決できたとシャーロックが認めるのを待っているというジョンに対し、シャーロックはやはりそれを認めない。少し力の抜けた声で話すジョンは、シャーロックを理解することをすでに諦めているようにも見える。
真夜中のプールにモリアーティを呼び出したシャーロックだが、ジョンを人質にとられてしまう。自分以上に犯罪をゲームとしてしか思わないモリアーティと話し、シャーロックは自分はモリアーティとは違うと感じる。
ジョンは体を張ってシャーロックを銃から守ろうとする。このことで2人は信頼は深まる。シャーロックはうまく感謝を伝えられなかったけれど。
余談ですが、E1の最後でジョンはマイクロフトがシャーロックの兄だと聞き、てっきり・・・だと思った、と言いかけるのだけれど、多分ジョンは、マイクロフトのことをシャーロックの元彼と思ったんじゃないのかな。マイクロフトのセリフは、聞きようによってはそう聞こえるし(気にかけているだの同じ側にいるだの)。私はマイクロフトの底知れない感じ、好きです。