「あなたの人生は、いま何点ですか?」
「LIFE!~人生に捧げるコント~」の「LIFE!ANSWER」というコーナーの話。出演者が天の声からときどき投げられる質問。
自分の今の生活とか、何を優先して生きるべきかとか、目指している場所に対して自分がどの辺にいるのかとか、そんなことを考えさせられる。
1番記憶に残っているのはドランクドラゴンの塚地武雅さんのときで、確か、2点、という答えだった。100点満点で。おもしろいことなんてなーんにもない、毎日同じことの繰り返し、というようなことをおっしゃっていた気がする。
才能を評価されてテレビで活躍していて、うまくいっているように見える人生でも、本人はそうでもなかったりするのだろうなあ。塚地さんは、結婚して子どもがいたりすれば違うのかもしれない、ともおっしゃっていたように思う。けれどそれはそれで、別の悩みや不満があったりするのだろうし。結局何をしていても、ないものねだりなんでしょうか、人生って。
私は80点、とか言いたいところだけれど、30点くらいか。いやこれから春へ向けての期待を込めて45点くらいにしておくか。どちらにしろ、50点は超えない、今のところ。
なんてことを考えながら通勤中、「LIFE!」に出演されている星野源さんの「桜の森」を聞いていた。
この歌は星野源さんの歌を聞くようになったきっかけで、大好きな歌。職場までの道を「あ、そ、こ、のもーりーの」などと歌いながら歩いていたら、サビの前の歌詞でようやくふと、というかやはり、ちょっと恥ずかしくなり、晴れた寒い朝に妙齢を過ぎた女がひとりでヒールをコツコツいわせながら歌う歌ではないかと思い、「SUN」に切り替えた。
君の声を聞かせて
雲をよけ 世界照らすような
君の声を聞かせて
遠い所も雨の中も全ては思い通り
楽しい春が来ますように!
ブログを始めて3カ月経って思うことと、Web世界についての妄想
ここらへんで一度、今思っていることなど書いておこうと思う。
最近はドラマの感想を多く書いている。もともとこのブログを始めたときには、そういう記事を書くつもりはなかったのだけれど、『逃げ恥』がおもしろくて他のブロガーの方たちの感想を読んでいるうちに、自分も書いてみるかと書き始め、けっこう楽しいのでそのまま書き続けている。数年後に読むのもおもしろい気がするので、今後も心に引っかかるドラマについては書いていこうと思う。
あとは、日々感じたことや好きな本のことをもっと書いていきたい。
何を書くにしても、自分が楽しくなければ続かないと思うので、楽しいと思うことを書いていけたらいいかな。
ときどき、妄想する。
私たちは真っ平な土地の上で生活し、私たちの上には巨大な水風船のようなWeb世界が浮かんでいる。Web世界は、毎日休みなく、誰かの感情や思想が流れ込み膨張していく。水風船に水が入れられていくように。ある日その重さと容積に耐えられなくなって、パーン!とはちきれたら、それまでWeb世界に溜め込まれていた感情や思想が一気に私たちの上に降り注ぎ、かつてないほどの思想的混乱に陥るのではないだろうか。
そんなことを私は妄想し、その妄想さえこうしてブログに書くことで、ほんの少しだけれど、妄想という水をまた入れてしまう。水風船は無限に膨張していけるだろうか。
あ、でも、もうここ何年かは、それより前からかもしれないけれど、水風船の中の水は常に少しずつ漏れてこちら側にしずくを落としているみたいだ。その数は年々増えている。いずれ雨のようになるかもしれない。もう降っている場所もあるかもしない。
このブログをいつまで続けられるのかはわからないけれど、続けられるところまでは続けていこうと思っている。
『カルテット』STORY4 連鎖する秘密
第4回は、家森さんの回でした。
家森さん役の高橋一生さんは、前クールのドラマ『プリンセスメゾン』で演じられた伊達さん役が好きだった。呼吸とか、指の先、目線の先まで行き届いた演技で、『カルテット』を見ようと思ったのは高橋一生さんが出るからというのもある。
(余談ですが、『プリンセスメゾン』はドラマ自体も好きだった。もう一度見たいけれど、残念ながら今のところ再放送の予定もDVD発売予定もないようです。)
自分の過去の秘密について話すとき、宝くじで6000万当たったことがある、とまずそこから始めるというのは、そのことが家森さんにとって今もそれだけ大きなことだったから。もしそれを受け取っていたら、そのときの未来であった現在を変えられていたかもしれない。
けれど時間は不可逆。から揚げにレモンをかけたら、もとに戻らないことはよくわかっているはずなのに、理解することと納得することは違う。
別府くんが言い出した、朝のゴミ出し問題。
「僕が全部やっちゃうから、みんなやらないのかなあ。僕がやらなかったらみんなやるのかも。」
自分がやっちゃうから他の人はやらないのか、ということは、仕事ではけっこうある。ちょっとした雑用とか、誰かがやらなければいけないことだけれど、少しだけ面倒なこと。これはなかなか、解決するのが難しい。ちょっとしたことだから、そう思ってもたいていは強く言えない。別府くんみたいには。
仕事だけの関係ではないから、ゴミ出しのようにちょっとしたことでも、口に出してしまえるのかもしれない。別府くんは。
いろいろあったけれど、今さらなんだけれど「マキさん」が気になった。
巻真紀さんは「マキさん」と呼ばれるとき、「巻さん」か「真紀さん」か、どちらで呼ばれていると思っているのだろう。
呼ぶ方は下の名前で呼んでいるつもりでも、呼ばれる方は苗字で呼ばれていると思っていたりすることもあるだろう。呼び方はその人との関係性を規定してしまうことがあるので、どう呼ぶか、どう呼ばせるかは、最初に出会ったとき、関係が変化するときに一考するべきかもしれない。私は巻真紀さんのことを、少しの親しみを込めて「真紀さん」と書いている。が、決して「真紀ちゃん」とはならない。
別府くんはどうなんだろう。巻、という苗字は真紀さんの夫のものなのだろうから「真紀さん」と呼びたいけれど、やはり「巻さん」と呼んでしまうのろうか。愛しいが虚しいに勝っているときなどは、「真紀さん」と呼びたくなるのかもしれない。そんなこと、どちらでもいいのか、マキさんには。
「語りかけても、触っても、そこには何もない。」
横から見たら欠けているところなどないのに、上から覗くとぽっかり穴のあいたドーナツのように。真紀さんの、まだ見えない、暗くて深い空間には、どんな秘密が隠されているんだろう。
有朱のような人は、人の秘密の匂いを嗅ぎつける特殊な鼻を持っているんだろう。真紀さんの秘密を追っていたすずめちゃんは、「真紀さんの秘密を追っていた」という秘密を有朱に追われることになった。秘密が新たな秘密を作り出し、その秘密が別の他人に追われることになる。
大人だからって、秘密を守ることができるだろうか。
『カルテット』について書いた記事
『刑事フォイル 戦争の犠牲者』
『刑事フォイル 戦争の犠牲者』の感想を書いています。第4シリーズパート2の2話目(NHK BSプレミアムでは2017年1月22日、1月29日放送分)です。
あらすじ
<前編>
1943年3月。フォイルのもとに、かつて親しかった上官の娘が子どもを連れて現れる。彼女はとても困っている様子だった。一方、ヘイスティングズでは、沿岸部での破壊工作と違法賭博が横行。ミルナーが潜入捜査をしていた賭場で、二人の若い兄弟が大金を使っていたことにミルナーは疑問を抱く。町外れの研究所では、ある研究が秘密裏に行われていた。
<後編>
殺された男は研究所で働くイブリンの夫だった。教授のタウンゼンドは研究を優先させてほしいと、フォイルに殺人の捜査をやめるよう迫る。フランクとテリーの兄弟は、タウンゼンドたちが遺体を森に隠すところを目撃。これをネタに、タウンゼンドから大金を脅し取ろうとする。サムは森にピクニックにでかけたところ、爆発に巻き込まれる。
NHK 海外ドラマHP 『刑事フォイル』これまでのあらすじ より
感想
3つの犯罪が交差します。破壊工作、違法賭博、銃による殺人。フォイルは、犯罪者には法による相当の罰を与えるべきという正義を貫こうとします。
フォイルが正義を貫こうとすると、必ず上司と対立します。警視監パーキンスは、フォイルはよく働くが反抗的、君の代わりはいくらでもいると言い放ちます。
フォイルの正義と、戦争に勝つという目的との対立。戦争に勝つためには、法を曲げ、容認してもいい罪があるのか。このドラマで何度も問われてきたことです。見ごたえのある話でした。
フォイルが捜査している破壊工作は、スペインの大使館付きの身分のデ・ペレスが、家に盗みに入ったフランクとテリーの兄弟を脅してさせていました。2人は、賭場でミルナーが出会った若い兄弟でした。フランクとテリーの父親は戦地へ行っているため不在、母親はすでに亡くなっていて、デ・ペレスの言いなりになるしかありませんでした。
デ・ペレスは、フランクに爆弾を渡し、町外れの研究所を爆破するよう指示します。この研究所では、イギリスがドイツに勝つために必要とされるある装置の研究を極秘で進めており、フォイルの知り合いのタウンゼンドもここで働いていました。研究所の下見に行ったフランクとテリーは、タウンゼンドらが死体を運んでいるところを偶然見てしまいます。2人はこれをネタにタウンゼンドを脅して大金をせしめ、ヘイスティングズから出ることでデ・ペレスから逃れようとします。生活するためにお金を手に入れなければならず、そのためには犯罪に手を出すしかない2人も、戦争の犠牲者なのです。
フランクとテリーが見た死体は、研究所の秘書として働くイヴリンの夫リチャーズでした。イヴリンは、研究所の装置を壊そうとしたリチャーズを、装置を守るために仕方なく銃で撃ったと告白しました。しかし、フォイルはその裏にある真実に気づきます。
フランクとテリーに破壊工作を指示していたデ・ペレスはスペイン人です。スペインは1939年に中立を宣言したものの、裏でドイツに協力していました。デ・ペレスの破壊工作も、イギリスの軍事力を弱めようという意図でなされものです。しかし、デ・ペレスに対しては、治外法権のために手が出せません。
一方、フォイルの家を突然訪れてきたかつての上官の娘リディア。彼女は誰も頼れる人がなく、息子のジェームズは空襲を受けて以来言葉を話さなくなり、精神的、経済的に追い詰められ、ある日姿を消してしまいます。
リディアがいない間、フォイルはサムにジェームズの面倒を頼みます。サムがジェームズに読む絵本もパズルも戦争に関するもの。空襲でショックを受けているジェームズを気遣い、サムはおもちゃ屋で戦争に関係ないものを探しますが見つかりません。すべてが戦争に染められていきます。戦争とは国がかかる熱病のようなものなのでしょうか。
フォイルは、パーキンスの元を訪れ、デ・ペレスの状況について尋ねますが、逮捕することはできないとわかっただけでした。
「罪を償わない人間ばかり。」
パーキンスにリチャーズ殺害の真実を告げ、その証拠があると言っても、パーキンスは
「それでは不足だ」
と動きません。
「不足。私にはもう十分です。」
フォイルが最終的に警察を去る決断を下したのは、この瞬間だったのではないでしょうか。パーキンスの反応次第では、警察に残ったのかもしれません。
「もう飽き飽きしました。戦争に勝つためという言い訳にも、少年たちを脅して破壊工作をさせた男には手を出せないのに、親が近くにいないゆえに道を踏み外したまだ若い兄弟には数年の重労働を課すとか、部下が見ている前で私を怒鳴りつける警視監にも。ええ、もう十分ですよ。」
フォイルにしては長いセリフからも、鬱積した気持ちが推し量れます。
フォイルはパーキンスの机に辞表を置き、パーキンスが引き留めるのも聞かずに部屋から出て行きます。
フォイルの辞表には、その無力感が表れていました。
「前にも申し上げましたが、戦争中に法を守るのはほぼ不可能です。その任務を遂行する能力がない以上、本官が現在の地位にとどまるのは無意味だとの結論に至りました。」
どうしても正義を貫けないと感じたフォイルの決断は、仕方ないのかもしれません。 フォイルの決断を聞いたサムとミルナーの表情が切ないです。
『刑事フォイル』について書いた記事
『カルテット』STORY1、2、3 一筋縄ではいかない大人たち
このドラマについてあちこちで「万人受けする作品ではない、でもおもしろい」と書かれているのを見る。私もそう思う。
松たか子さん(巻真紀)、満島ひかりさん(世吹すずめ)、高橋一生さん(家森諭高)、松田龍平さん(別府司)。この役者さんたちがそろうというだけで、見よう!と思った。会話劇というのは、演じる役者さんによって出来が左右されてしまうものだけれど、4人で会話する場面はエチュード(即興劇)なんじゃないかと思うほど、台本のセリフを言ってるなという感じがしない。
偶然カラオケボックスで出会った4人は(実は偶然ではなかったと第2回でわかった)、カルテットを組むことに。4人は軽井沢にある別荘で共同生活を送る。
そして4人の秘密が少しずつもれていく。
1話では真紀さんが夫の失踪を白状した。
2話では別府くんがカラオケでの出会いは偶然ではないと真紀さんに思いを告白した。
別府くんと同僚の九條さんが、明け方のベランダでサッポロ一番を食べるシーンが好きだった。結婚が決まってるけど好きだから別府くんと寝た、でもそういうのは今日だけのこと、と言う九條さん。好きだけど、ある時点を過ぎて過去のものになってしまう恋愛というのは、あるよなあ。
2話ではいくつかの対比の表現があって、上と下、左と右、言葉と気持ち、など。その中に秘密を追う側と秘密を追われる側というのがあって、追うのがすずめちゃん、追われるのが真紀さん、だとすずめちゃんは思っていた。そうじゃなかったのかもしれない、とすずめちゃんが気づいたのが2話の最後。
3話では、ついに追う側と追われる側は逆転する。すずめちゃんの過去が真紀さんにばれる。
子どもの頃の隠しておきたい過去は、しかも親に言われてやっていたことなのに、逃げても逃げても追いかけきて、どこにも安住することができない。すずめちゃんの秘密に追いついた真紀さんは、逃げようとするすずめちゃんの手を握る。もう逃げなくていいのだと。
『湯を沸かすほど熱い愛』を見たときにも思ったけれど、家族に必要なのは血のつながりではなくて(そもそも夫婦は血がつながっていないことがほとんどだし)、お互いに求める力ではなく与える力の中に入っているということだと思う。父親に対してすでに与えようという気持ちがないすずめちゃんにとっては、父親はすでに家族ではなくなってしまった。
自分の体と同じくらいの大きさのチェロを背負って歩くすずめちゃんにとって、チェロはもうひとりの自分であり、唯一の家族だった。ようやく、チェロの他にも家族と言える人たちに出会えたんだ。
秘密。
ある程度の年数を生きていれば、人に言えない、言いたくないことは誰でもあるだろう。一筋縄ではいかない、秘密を抱えた4人。
ふと思ったんだけど、一筋縄でいく大人って存在するのだろうか(自分で「一筋縄でいかない大人」と書いておいてなんだけど)。ときどき出会う「昔は世の中を斜に見てる子だったんだ」と言う人に対して、世の中を正面からだけ見ているような子どもがいるだろうかと思うのと同じくらいに疑問に思った。
人とのつきあいが難しいのは、相手の感情や思考のごくごく一部だけしか見えないのに、見えないまたは見せない部分の感情や思考も考えて、相手に接しなければいけないから。人の中には大きくて深い空間があって、そこに考えられないくらい多くの感情や思考が詰め込まれている。それはまるでブラックホールのようだなと思う。みんながみんな、ブラックホールを抱えて、それでも平気な顔して外を歩いている。街はブラックホールであふれている。
もしも誰かのブラックホールにうっかり足を踏み入れてしまったら、元の場所に戻ってこられるんだろうか。巨大なドーナツの穴に落ちたときのように、穴を抜けて出られる空間は、落ちる前と同じ空間なんだろうか。アリスが落ちた穴のように、別の世界へ行ってしまうだろうか。
「告白は、子供がするものですよ。大人は誘惑してください。」
それが一般的な恋のルールなのか私はわからないけれど、冬に食べるアイスはおいしいよね。
『カルテット』について書いた記事
『クイーン・メアリー』 メアリーの義母 希代の悪女カトリーヌ・ド・メディチについて
NHK BSプレミアムで放送中の『クイーン・メアリー』は17話まで終了。メアリーの女官たちローラ、ケナ、グリアの結婚やスコットランド女王の自覚に目覚めたメアリーが今後どんな決断を下していくかも気になるけれど、フランス王妃カトリーヌ・ド・メディチの悪女ぶりがやはり気になる。
(画像はNHKクイーン・メアリーHPより)
歴史に名を残す悪女は多くいるとは言っても、「希代の悪女」と冠せられる女はそう多くない。『クイーン・メアリー』でのカトリーヌは、豊富な人脈と毒薬を使い、目的のためなら他人の、そして自分の血を流すことも厭わない。そんなカトリーヌの悪女ぶりを調べてみた。
カトリーヌとアンリ2世の結婚
カトリーヌは、フィレンツェを支配した一族メディチ家の一員。メディチ家はフィレンツェを拠点に金融業で財を成した。カトリーヌがアンリ2世と結婚したとき、夫には20歳年上の愛人ディアーヌ・ド・ポワティエがいた。
アンリが20歳の頃から愛人関係だったディアーヌは、年をとっても美貌が衰えない絶世の美女。一方カトリーヌは特に美しくなく、アンリはカトリーヌに見向きもしなかった。28歳で国王に即位したアンリは、即位式にディアーヌのイニシャルと紋章を縫い取った式服でのぞんだ。即位記念には高価な宝石類や城などを贈られたディアーヌに比べ、王室費が与えられただけのカトリーヌ。アンリからの愛情の差は歴然だった。
結婚から10年間子どもが生まれなかったことで一時は離婚危機ともなり、肩身の狭い思いをしていたカトリーヌだが、子どもが生まれてもその養育はディアーヌに任され、耐え忍ぶことばかりの結婚生活だっただろう。そのことが、自分の地位と大事な子供たちを守るために手段を選ばず、毒殺や暗殺を繰り返す冷徹な性格を助長したのかもしれない。
カトリーヌと毒薬
悪女と毒は相性がいい。ローマの暴君ネロの母で悪女として知られるアグリッピナも毒薬使いだったし、クレオパトラが蛇の毒で自殺したのは有名な話。
カトリーヌも毒薬使いだった。故郷イタリアは毒薬製造が発達していて、カトリーヌは結婚するときに、毒薬製造業者や占星術師や香料士を大勢連れてきたと言われている。
アンリ2世の即位についてもカトリーヌに絡む不穏な噂があった。アンリはフランス王フランソワ1世の次男でもともと王位継承者ではなかったが、兄が若くして変死したことで王位を継承した。この変死はカトリーヌが毒薬を使ったのではないかと囁かれた。
カトリーヌは手紙や手袋に毒をしみこませて相手を死に追いやったりもしたらしく、なんとも恐ろしい。『クイーン・メアリー』でカトリーヌは怪しげな薬瓶を部屋にたくさん置いていて、毒殺という手段をよく使っている。あれはドラマなので少し盛っているんじゃないのと思っていたのだけれど、もしかするとそうでもないのかも。
カトリーヌと誘惑部隊
『クイーン・メアリー』17話で登場した誘惑部隊は本当にあったらしい。
誘惑部隊とは、有力者を誘惑してベッドの中で諜報活動を行う一団のこと。カトリーヌは彼女らを使って政治機密をいち早くつかんでいた。
サン・バルテルミの虐殺(1572年)
カトリーヌが希代の悪女と言われるようになった最大の原因。
当時のフランスは新教と旧教(カトリック)が対立していた。この内乱状態はユグノー戦争(「ユグノー」はカルヴァン派に対するカトリック側からの侮蔑的な呼び方)と呼ばれ、1562年から1598年まで続いた。
フランス宮廷のヴァロワ家はカトリック(旧教)、敵対するユグノーの盟主はナヴァル公アンリ(後のフランス国王アンリ4世)だった。カトリーヌは、国内の旧教派と新教派を共存させようと、娘のマルグリット・ド・ヴァロワ(マルゴ)とナヴァル公アンリを結婚させることにした。結婚式に出席するため、新旧両派のフランスの貴族たちがパリに集まっていたところ、ユグノー派の中心的人物コリニー提督が狙撃され負傷する事件が起こった。
この狙撃はカトリーヌがかんでいた。息子シャルルがコリニーと親しくしており、ともにフランドル遠征を計画していたのだが、シャルルはカトリーヌにはその計画を話していなかった。カトリーヌがコリニー暗殺を決めたのは、息子を取られた思いから来る嫉妬だったのだろうか。
コリニーは一命をとりとめたが、2日後の深夜、寝込みを襲われ暗殺された。パリでは旧教徒が新教徒を多数殺害し、通りは新教徒の死体で埋った。暴動は地方にまで広がった。虐殺を主導したのはカトリーヌだと言われている。シャルルは、良心の呵責にさいなまれ、事件の2年後に亡くなった(カトリーヌに毒殺されたとも言われている)。
サン・バルテルミの事件以降、フランスの新旧両派の対立は激化した。
ユグノー戦争の終結は、シャルルの後王位についたアンリ3世が暗殺され(1589年)、ヴァロワ家が断絶した後、アンリ4世が王位についてブルボン朝を開いてからのこと。アンリ4世はカトリックに改宗し、1598年にナントの王令を発布した。これは、新教徒に対し条件付きで信仰の自由を認めたものであり、ようやくユグノー戦争は終結した。
カトリーヌはその9年前に亡くなっている。
悪女カトリーヌ・ド・メディチ
こうして見てみると、毒薬に色仕掛けに虐殺と、悪女の条件をそろえたカトリーヌ。『クイーン・メアリー』でのメアリーに対する仕打ちは相当ひどいけれど、大事なものを守るためなら自分の身を顧みない潔さや、何事にも動じない心臓の強さを持ってる彼女が私はちょっとうらやましくもあって、憎めないキャラクターなんだよな。
『クイーン・メアリー』について書いた記事
<参考文献>
メアリー・スチュアート、エリザベス女王についての章もあります。澁澤龍彦氏だけあって、背徳の美が漂う。「物語」と題されているとおり、小説として読めます。
世界悪女大全-淫乱で残虐で強欲な美人たち」 桐生操著 文春文庫
こちらもメアリー・スチュアートについての記述あり。カトリーヌの娘で淫乱な悪女として知られる王妃マルゴについても書かれています。母とはまた違うタイプの悪女なのね。
『湯を沸かすほどの熱い愛』を見て
『湯を沸かすほどの熱い愛』2016年 日本 脚本・監督:中野量太
ネタバレしないように書きます。
2017年1月13日、第40回日本アカデミー賞の各部門賞が発表され、『湯を沸かすほどの熱い愛』は優秀作品賞(最優秀賞の発表は2017年3月3日)、中野量太監督は優秀監督賞、主演の宮沢りえさんは優秀主演女優賞、杉咲花さんは優秀助演女優賞と新人俳優賞に選ばれた。
その影響もあったのか、私が見に行ったときは平日なのにほぼ満員だった。
あらすじをものすごく大まかにまとめると、余命数か月と宣告された母の双葉(宮沢りえ)が、家出した夫の一浩(オダギリジョー)を連れ戻し、娘の安澄(杉咲花)の根性をたたき直し、夫がいなくなったことで休業していた家業である銭湯の営業を再開して、家族を再生していく話。
さんざん感動と言う予告はあまり好きではなかったし、これまで見た病気ものの映画のように泣かせにくるんだろうと予想していたのだけど、予想外のところを突かれて泣いてしまう。最後にわかるタイトルの意味も嫌いじゃない。
話のつくりは全体的に漫画チック。ちょっと現実離れした展開がところどころあり「いやそれはないでしょ」と心の中で突っ込みを入れた。重いテーマをシリアスにし過ぎないという意図なら成功している。
シリアスな部分と漫画チックな部分のバランスが取れている最も大きな要素は、宮沢りえさんの演技だと思う。とにかく、宮沢りえさんが本当に良い。その存在感で、全ての要素がおさまるべきところにおさまっている。宮沢りえさんがあってのこの映画の完成度だと思う。
娘役の杉咲花さんもよかった。上手なことはわかっていてもやはり上手だと思うし、とても伝わってくるものがある。「体当たりの演技」とはこういうのをいうのだなあ。特に病室での感情を抑える演技は秀逸。
もう1人印象に残った俳優さんを挙げるならオダギリジョーさん。もはやダメ男が板についている。わざとらしくなく、適度に力が抜けていて、しょうもない人なのにどうしても憎めない空気感がある。ダメ男以外の欠点はなく(という言い方もおかしいけど)、こんな人だから双葉は好きになってしまったんだよねと納得できる。
双葉は仕事中に突然倒れて病院で診察を受け、自分の余命を知る。もちろんショックを受けるけれど、自分はやるべきことがあると気づいてからの気持ちの切り替えがすごい。延命のために生きる意味を見失いたくないと延命治療はしない。「生きる意味」はこのときの双葉には明確で、家族のことだ。
なんとなく、よしもとばななさんの『アムリタ』を思い出した。『アムリタ』にもちょっと複雑な家族が出てくる。その中のセリフに
「ある種の愛が家庭を存続させるのに必要、なのよ。愛ってね、形や言葉ではなく、ある1つの状態なの。発散する力のあり方なの。求める力じゃなくて、与える方の力を全員が出してないとだめ。」
双葉は、家族全員が与える方の力を出せるようにしていく。家族とは、血縁と関係なく、お互いに与える力の中に入っている集合体なのかもしれない。与える力が相手に届かなかったり、与える気持ちがなかったりすれば、家族からは外れていくのかもしれない。
それはこの映画に出てくる何組かの母と娘にもあてはまる。深くなる母と娘の関係、崩れてしまう関係、新しく築いていく関係、修復できない関係。うまくいく関係だけではないのは残酷な現実。
この映画は、死にゆく人がやるべきことをやる話、とか残される人たちが自分の居場所を見つける話、とか母と娘の関係を描いた話、とかいろんな見方ができると思うけれど、私は見ている途中から、これはロードムービーなんだと思った。いつか必ず終わる人生という旅で、嬉しいことも悲しいこともあって、出会う人も別れる人もいて、その旅をどう終わらせるのかを描いた話だと。
死を「旅立ち」と表現することがあるけれど、旅立っていくのは生きている安澄たちの方だ。死んでいく双葉の旅は終わり、生き続ける安澄たちは旅を続けなければならない。双葉が余命宣告を受けてからしてきたことは、大事な人たちに対するはなむけの言葉だったのだと思う。
主人公の朔美は、母、腹違いの弟、母の友人、従妹の5人で暮らす。記事の中で紹介したセリフは、母の友人純子さんの言葉。
家族、生と死、オカルト、等ばななさんのテーマがこれでもかと詰め込まれている作品。小説の出来というところからすればもっと完成されたばなな作品もあると思うのだけど、私にとって『アムリタ』は、疲れたときに読みたくなる大切な本です。